不思議と幸せ

小さな幸せ

「おくの細道」とともに 3

      3
 
   <蘆野の柳>
 
又、淸水ながるるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。此所の郡守戸部某(ぐんしゅこほうなにがし)の、「この柳みせばや」など、をりをりにのたまひ聞こへ給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳のかげにこそ立より侍りつれ。
   
   田一枚植えて立ちさる柳かな

西行法師が「清水流るる柳かげ」と詠んだ有名な柳のかげに立ちよることになったのです。
 その西行の歌に呼応するかたちで、田植えを手伝って、そこを後にした、と付け句したのです。
 
   <白川の関>
 
心もとなき数かさなるままに、白川の関にかかりて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳にのこし、紅葉を俤にして、靑葉の梢なほあはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めし事など、淸輔の筆にとどめ置れしとぞ。
 
   卯花をかざしに関の晴着かな  曾良
 
・白川の関越えにあたり、古人に敬意を払って、晴れ着に着替えたという故事に基づいた俳句です。今、晴れ着を持ち合わせない自分は、この咲き乱れた卯の花を頭に挿して、晴れ着の代用にしようと・・・・。
 
   <須賀川
 
とかくして越行くままに、あぶくま川を渡る。左に會津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼といふ所を行くに、けふは空くもりて物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋ねて、四五日とどめらる。まづ「白河の関いかに越えつるや」と問ふ。「長途のくるしみ、心身つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしく思ひめぐらさず。
 
   風流の初めやおくの田植うた

無下に越えんもさすがに」と語れば、脇・第三とつづけて三巻となしぬ。
 
・等窮は、芭蕉よりも六歳年上の先輩である。白河の関を越え奥州に入って、まず耳にした田植えうた、これがみちのくで味わう最初の風流です。
 一句も詠まずに関越えするのも、やはり気がとがめますので、なんとかひねってみましたと、弁解したところ、これを発句として、二句・三句と続けて、三巻もの連句ができました。
 
   <栗の花>
 
 この宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧あり。とちひろふ深山もかくやと閒(しづか)に覚えられて、ものに書きつけ侍る。その詞、
 
      栗といふ文字は西の木とかきて西方浄土に便りありと、
      行基菩薩の一生杖にも柱にもこの木を用ひたまふとかや。
 
   世の人のみつけぬ花や軒の栗
 
・世をいとふ僧、等窮の友人で、俳人の栗斎(りっさい)は、いわゆる「遁世者」「世捨て人」である。後にこれらをあわせて「隠者」とも呼ぶようになった。
 
 この庵の軒に栗の花が咲いている。目立たないので、世間から評価されることもない。しかし、この花のように清貧に生きる庵の主人は、あの行基菩薩と同じ思いを、花に託しているにちがいない。
 
   <浅香山
 
等窮が宅を出て五里ばかりの檜皮(ひはだ)の宿をはなれて、浅香山あり。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈るころもやや近うなれば、いづれの草を花かつみとはいふぞと、人々にたづね侍れども、更に知る人なし。沼をたづね、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。
 
芭蕉が「かつみ」を熱心に探し歩くのは、藤原実方の伝説に心を寄せているからだ。「かつみ」は、古くは真菰(まこも)の異名だった。それが、芭蕉のころは「あやめ」の一種をさすようになったという。
 
・次回に続く・・・・。