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手塚治虫漫画と私

 

 手塚治虫漫画というと、子供の頃、テレビで見たアニメ「鉄腕アトム」を思い出します。それから、中学・高校・社会人となり、「火の鳥」「ブラック・ジャック」などとの出会いがありました。私はブログに書きましたが、マイナーというか、個人的な日常のささやかな暮らしを描いた、永島慎二漫画つげ義春漫画の世界が好きでした。とともに、社会人になってからは、漫画を読むということからは遠ざかりました・・・・。「アニメとしては、「スラムダンク」「ワンピース」などと、「千と千尋の神隠し」などの宮崎駿作品などとの出会いがありました。

 話は手塚治虫漫画ですが、手塚治虫漫画は、あまりにも偉大すぎて、自分にはついていけないところがあったと思います。そして、今回、何故か、「手塚治虫漫画と私」として書いてみようと思いました。

 

 「火の鳥」についての手塚治虫さんの言葉です。

 

 ぼくは医学生時代、何度も人の死に立ち会った。

死とはいったいなんなんだろう?

そして生命とは?

 生命が物質なら、それらにも霊魂があるのだろうか?

 人間は何万年も、あした生きるためにきょうを生きてきた。あしたへの不安は死への不安であり、夜の恐怖は死後の常闇の恐怖とつながっていた。人間の歴史の、あらゆるときに、生きるためのたたかいがなされ、宗教や思想や文明のあらゆるものが、生きるためのエネルギーにむすびついて進歩した。

 「火の鳥」は、生と死の問題をテーマにしたドラマだ。

 

 また、手塚治虫漫画についての解説として、大島渚さんの言葉です。

 

「戦後の日本において、文学者がやった仕事などというものは、まったく微々たるものである」というのが私の意見だが、それにひきかえ、漫画家たち、ことに児童漫画家たちは、なんと巨大な仕事をしたことか。それは何よりもまず、児童漫画家たちが転々と移り変わる時代の流れに、文字どおり身を挺して描き続けたからにほかならないが、それと同時にそのなかで、激しい理想主義の炎を燃やし続けたからであると私は思う。

 そのように考えた時、手塚治虫さんがそうした児童漫画の、というよりは漫画界全体の最高峰であることが、単なる形の上ではなく、漫画と漫画家のあり方の内容を決定したという意味で、巨大な重さを持つと、日本の現代人に位置づけられるのである。

 

 手塚漫画の基調をなすものは疑いもなく、ヒューマニズムであり、私が仕事の上で志すところのものは、ヒューマニズムの甘い外皮をはいで、苛烈な事物の実相をさらすことにあるのだから、私が手塚漫画を好むというのは、一種おかしなものである。

 

 そう、手塚さんは、そぼくなホーム・ドラマ的な人間の愛情の交換をこよなく愛する人であるけれども、それにそのまま幸福な結末を与えるような甘いヒューマニストではない。手塚世界では、必ず何か巨大な崩壊が待ち受けていて、それらの微小な愛や幸福を一気につきくずしてしまうのである。その崩壊は、時には戦争であり、時には自然界のパニックであり、時には文明の異常発達であるが、いずれにしても、その崩壊の様相のすさまじさが手塚漫画の決定的な魅力になっていることは疑いない。

 手塚さんは、この巨大な崩壊のあとに必ず再生、あるいは回生のイメージを用意する。そこが巨大なヒューマニストである面目がある。この崩壊と再生のイメージは、手塚さんの戦争体験と戦後に生きる志の結晶であろう。それゆえに、このイメージは、われわれの胸をうつ力を持っているのである。

 

 以上の言葉からも、手塚漫画のすごさ、奥深さが感じられます。また、手塚漫画が詩的だと感じられるのは、その手塚漫画のヒューマニズムの描写のなかにあるのかも・・・。でも、私が手塚漫画にあまりのめりこまなかったのは、画風によるのかも知れませんが、手塚漫画を読む自分は、それら物語を客観的に見ていて、現実にはありえない漫画のなかの話だと割り切ってしまっていたのだと・・・・。

 

 裏返せば、それら、ありえない話だと思うからこそ、たとえば、「火の鳥」「ブラック・ジャック」などの手塚漫画を、現実のことだと受け入れることができるとき、なんと、壮大なカタルシスを受け取るのではないのでしょうか・・・・。

 

 

・ちょっと、まとまりのない話になってしまいましたが、手塚治虫さんの、博識やヒューマニズムには脱帽の私です。そして、その広大な手塚漫画の世界は、未来に対しても扉を開いていて、ある日、未来の少年が手塚漫画の世界にはいり込んだら、その世界はどのように変わっていくのか、あるいは、どうなるのかななどと思う私ではあります・・・・。

                      ● 詩と漫画